イェール大学東アジア研究評議会主権シンポジウム

2025年9月12日(金)イェール大学

共同主権者:ウイリアム・W・ケリー、ダニエル・ボツマン

1935 年、ジョン・エンプリーとエラ・エンブリーは、南九州にある8 つの集落からなる村「須恵村」に移り住み、ー年間の人類学的フィールドワークを開始した。この調査、ジョン・エンブリーがシカゴ大学に提出した1937年の博士論文の基礎となり、彼は1939 年にこの研究を改訂し、、「須恵村:日本の村」として出版した。本書は日本人類学における最初の民族誌的モノグラフであり、現在では300 冊を超える多様なテーマと地域を扱った研究の先駆けとなった。驚くべきことに、この膨人な研究群中にあっても、「須恵村」は最も長く、そして複雑な「後日詞」を持つ作品であり、とりわけその調査地である須恵村においては特別な存在となっている

2021年6 月、エンブリー夫人の調査終了から85年を経て、日本の農山漁村文化協会(農文協)は、「須恵村』の新たな完全翻訳版を刊行した。この翻 訳を手掛けたのは、九州在住のジャーナリストで作家 の田中一彦氏である。中氏は近年、エンブリー夫妻 軍、エンブリー夫妻 と須恵村に関する驚くべき三部作を発表している。

2017年には、夫妻の生い立ちや須恵村でのフィールド ワークを描いた伝記『忘れられた人類学者 エンブリー夫 妻が見た〈日本の村〉』を刊行した。この書籍は、田中氏 自身が2011年から2014年にかけて須恵村で行った 徹底的なフィールドワークと、日本およびアメリカの各種 アーカイブを基に執筆されたものであり、地方出版社が発 行した書籍の中で最も優れた作品に贈られる全国的な賞 を受賞した。続く2018年には、第二次世界大戦期か ら1950年にジョンが悲劇的な死を遂げるまでの夫妻の 活動に焦点を当てた続編『日本を愛した人類学者 エンブ リー夫妻の日米戦争』を発表し、さらに10年にわたるプロ ジェクトの集大成として、『須恵村』の注釈付き翻訳を完 成させた。

しかしながら、田中氏の三部作は、決して「忘れ去ら れた名著の突然の再発見」ではなかった。『須恵村』とエン ブリー夫妻は、地元では決し て忘れ去られることはなかっ たのである。むしろ、この数 十年間、アメリカの学術界の 視野から外れがちでありながらも、本書は地元の歴史家たちにとって刺激となり、さらには市町村合併や地域アイデンティティ、経済活性化といった地方自治や県レベルの議論において、強い政治的影響力を持つ存在となってきた。民族誌的専門書が、これほど多様な影響を及ぼすことは、人類学全体においても稀なこと である。

本シンポジウムでは、この著作・著者、その妻(戦後三 度にわたり須恵村を訪れ、後に自身も須恵村に関する共 著を執筆した)、そして須恵村そのものを改めて振り返り、 この90年にわたる驚くべき遺産を辿るとともに、現代日本 の地域社会が直面する問題にとって、本書がどのような 意義を持ち続けているのかを明らかにすることを目的とす る。
 
2025年を選定した理由は、エンブリー夫妻のフィールドワーク開始から90年を記念するとともに、田中氏の出 版物における過去10年間の村の発展に光を当てるためであ る。さらに、エンブリー夫妻とイェール大学の間には、悲 劇的なつながりがあることも指摘すべきであろう。第二次 世界大戦中、多くの学者と同様に、エンブリー夫妻も政府の業務に関与することとなった。ジョン・エンブリーは軍の民政訓練学校の一つを指揮し(彼の著作は複数のカリキュラムで使用された)、また日系アメリカ人の強制収容所の管理を評価する任務にも就いた。戦争が終わると、占領政策の一環として日本への派遣を打診されたが、彼は収容所の運営に批判的であり、軍主導の社会政策にも慎重であったため、これを拒否し、代わりに数年間を東南アジア での研究に費やした。
 
1948年、彼はイェール大学の教授に任命され、同大学の東南アジア研究プログラムを創設した。しかし、1950年のクリスマス数日前、彼と娘はクリスマスツリーを買うためにホイットニー・アベニューを横断中、自動車にはねられ、命を落とした。妻のエラ・エンブリーは悲しみに暮れ、間もなく夫妻がかつて研究を行っていたホノルルへと移り、ハワイ大学の教授として長いキャリアを築いた。
 
彼女は夫妻の研究資料をスプリング・グレンの隣人の屋根裏に長らく保管していたが、その後、それらを回収し、当時アメリカで最も著名な日本人類学者であったコーネル大学のロバート・J・スミスとともに、須恵村に関する自身の著作「須恵村の女たち』をまとめた。この経緯によりエンブリー夫妻の研究資料の大部分はコーネル大学に保管されており、イェール大学には一部の日誌や文書が「原稿・文書アーカイブ」に収蔵されている。